ブラックホール

書くことで何かを見つける日々です

よく遊ぶ(かさねぎリストバンド「ParaFull/パラフル」)

‪今日北千住BuoYで開催されたかさねぎリストバンドのライブ、「ParaFull/パラフル」に行ってきた。結論から言えばとても良いライブだったと思う。

個々の曲も勿論それぞれの色があって様々なアイディアが盛り込まれていて楽しめたのだけれど、何よりも場のあり方が素敵すぎた。それぞれの出演者は「上手い」「高い技術がある」からではなく、その人が居ることがバンドにとって「よい」がゆえにこの場に存在しているという感覚が持てた。そこには優しい肯定があって、でもそれは何でもありではない、そのバランスがあの場を価値あるものにしていた。

円状の配置で演奏し合う彼らの姿は公園で遊んでいる子供のように見えた。他のライブでも「こいつら遊んでやがる!」と感じる時があるが、それはめちゃくちゃに上手すぎて、その高い技術によって僕らにとってはとてつもない演奏が彼らにとっては遊びのように見えるということだと思う。‬‪でも、かさねぎリストバンドはそういうことじゃない。それぞれが異なるバックボーンをもとに自分のできること/やりたいことをやっている。それは上手いバンドが一つのものを目指して個々のスキルを発揮するのとは違って、もっと緩く大きな何か。それは別の言葉で言えば「よく遊ぼうとしている」ということかもしれない。鬼ごっこで走るフォームやタッチの速度が問題にならないように、彼らは最低限のルールを守ってその中で自らの遊びを遊んでいる。自分のことも集団全体のことも同時に考えていて、集団として楽しく遊べるように自分のなすことをコントロールしたり、自分が楽しむために集団でやっていることから外れたり、そういう選択が(無)意識的に行われていた。多分、あそこには「上手い」「下手」の二項対立ではなく「よい」と「よりよい」しかないのだ。根本に増田さんの楽曲があって、そこに集った各人にできることがあって、そのできることから出発した表現の欲求があって、それはもうその時点で「よい」ことなんだ。もちろん、そこから実際に演奏する際には守らなきゃいけないこととかこうすればより楽しいと思えるコースがあって、最初の「よい」地点から「よりよい」地点へと行けるんだけど、その「よりよい」を目指すのは上手くなきゃいけないという強迫観念めいたものじゃなくて、元々にある「よい」の持つ安心感からスタートする自分と集団を認めていく心みたいなのが原動力なんじゃないか。

自分は高校から打楽器を始めて、上手い上手くないという線上に自分は置かれた。その上で他人を評価したり、自分がドロップアウトしたりしたわけで。上手くなきゃいけないみたいな(ある面では本当かもしれないけど)ちょっと苦しくなっちゃうような‬考えにやられるときもあって。だからなんかみんなが演奏している姿を見て泣きそうになっちゃった。音楽のグルーヴを超えて、そこにいる人々の存在同士が絡み合ってグルーヴしている有様。北千住の地下には肯定が満ちていて、途中で入っても抜けても、歩き回っても、静かに聴き入っても、ウトウトしても、物を落としても、それは全て空間の一部として保存されて、その懐の深いスペースがそこにあって、それがとても僕には優しかった。‬いつか観た演劇だかライブの後に「なんで俺がこれに参加してないのか、意味がわかんない!!!」と思ったことを思い出す。僕も参加したいよ、一緒に遊びたいよ、という気持ち。参加できるかも、参加したい、という気持ちを湧きあがらせるムード。そういうものが醸成されていて‬、それはきっと目の前で何かが生み出されていることが分かるから。きっと僕も生み出したいと思うんだろう、そして多分もっと観客や聴衆が、観客や聴衆だけであることをやめたら、あの空間はさらに色々なもので埋め尽くされる。僕はその光景が観たい、その中に居たい。

そういえば、こないだ演劇が演劇のボキャブラリーで語られてしまう狭さについての話をちょっとだけしたのだけど、今回のライブはまさに音楽でありながら音楽の語彙に収まり切らない魅力を持った素晴らしいライブだったと思う。音楽が別のところへと開かれていって、それぞれの人がそれぞれのことを語ってしまう。そんな良い空間だったと思う。あぁ、日々の中でもよく遊ぼう。‪僕にできることを、みんなとできることを、探そう。