ブラックホール

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音への執着(2020/02/19 東京藝術大学打楽器科有志演奏会)

 今年も東京藝術大学打楽器科有志演奏会に行ってきた。ここ数年は毎年聴きに行っているけれど、近年で一番挑戦的な選曲だったと思う。「打楽器アンサンブル」という枠組みを現代音楽の歴史とパラレルに捉えた選曲(1960年から2006年までの4作品が年代順に演奏される)により、総じて現代音楽における音と演奏行為の更新/変容を感じることのできる作品群が集まっていてとても面白かった。

 最初に演奏されたジョン・ケージの《カートリッジ・ミュージック》(1960)は多くの彼の作品同様、偶然性の確保と音楽/楽音の領域拡大を目指している。演奏者はケージの作成した楽譜(といっても図形譜のようなものらしい)を任意に組み合わせることで、それぞれの楽譜を作る。そして、演奏者はその楽譜に合わせて(とは何を示すのか演奏会で与えられた情報からは判断できないが)レコードプレイヤーのカートリッジ(もしくはピックアップマイク)が取り付けられた物体を「演奏」し、その結果としてスピーカーからザラザラ、カサカサ、カチカチなど様々な物音が発せられる。今回の演奏では、3人の演奏者が客席に点在しており、マイクとスピーカーを通した演奏も相まって、特定の音とその原因となる演奏-行為の関係性を把握することが難しい。それゆえ、音は演奏者の身体からはぐれて、聴者は演奏会の会場にいながらにして録音を聴くようにこの作品を鑑賞することになる。しかし、スタジオ録音とは違って会場に響く生音もまた同時に聴き取られるのであり、やはり演奏会的な音のあり方も残っている。その点で今回の演奏は作品の持つ既存の演奏(会)の構造に対する揺さぶりをより強めるものだと言える。ただ、この曲の演奏/聴取(他のケージ作品にもある程度当てはまると思う)には、発される音に対しての態度決定の難しさが存在する。上に記したようなコンセプチュアルな面白味はこの文章を書くにあたって遡及的に考えついたものである(からと言ってそれが無意味になるわけではない)。演奏会で作品と向き合っている最中は、どうしてもそれを「音楽作品」として聴き取ろうとしてしまう。このとき感性的な快への傾向性を否定するのは難しい。すなわち、たとえ既存の楽曲構造や標準的な楽音から離れていたとしても良い音の並びを期待してしまうのだ。しかし、結果としての音響への配慮は、ケージが偶然性を重視し、また、楽器の標準的な使用を避けたことと矛盾するかもしれない。ケージのコンセプトは興味深いが、現代においてその新鮮さは損なわれている部分もあるから、それをわざわざ演奏会で取り上げる際にはなんらかの工夫が必要になるだろう。そのことと関連するかは分からないが、今回の演奏では楽器ではない物体(台、電車のジオラマインスタントカメラ、ヒーター(?)など)が多く用いられていた。それらが実際に目の前で演奏されることで楽器となる物体そのものに対する興味が惹き起こされる点も面白かった。ただ「インスタントカメラはストロボを焚いた方が良いじゃん!」などと思ってしまうのは、音というよりも物そのものの面白さに焦点が当たってしまっているからかもしれない。アウトプットされる音が予測可能な物体=楽器を用いた方が、マイクを通した演奏の歪みが顕在化したのではないかとも思ってしまう。

 2曲目は武満徹の《雨の樹》(1981)であり、もしかしたらこの演奏会で唯一打楽器アンサンブルらしい曲だったかもしれない。雨音を思わせるクロテイルやビブラフォンの金属的な響きと、マリンバによる木質の響きによって「雨の樹」が描かれているように思える。2台のマリンバ、および、1台のビブラフォンの音がズレたり合わさったりするなかに、リズム的な愉悦と雨粒の降り注ぐイメージを感じとることができよう(こういう曲やその演奏を評する語彙をあまり持ち合わせていないだけで良い演奏だったと思っている)。曲中、演奏に合わせて細かくスポットライトが変化するのだが、これは演奏者のポジションとともに武満自身により指定されているものらしく、視覚情報による聴取への介入を狙っているように思われる。ケージも武満も音響や照明の演出効果を取り入れた演奏になっており、前半はスタッフワークも光る実演だった。

 休憩を挟み、3曲目はリゲティ・ジョルジュの《笛と太鼓とフィドルと》(2000)だった。要塞のように配置された多数の打楽器群とメゾ・ソプラノ独唱による作品だ。曲は短い7つの部分に分かれ、それぞれサーンドル・ヴェウレシュにより書かれたハンガリー語の詩が歌われる。メゾ・ソプラノの独唱の性格は歌、詩、音、台詞と様々に推移していく。ある歌は全く意味を持たない単語の羅列であり、ある歌は他の曲に比べると大変「歌曲らしく」歌われる。時には言葉が無音程的に語られたり、反対に感情を込めるような仕草で激しく歌われたりもする。おそらく観客の多くはハンガリー語を解さないだろうから、意味の同時把握は不可能であり音としての側面が強調されるが、メゾ・ソプラノの根本真澄は言葉の性格の差異を捉えて音に現していた*1。歌の変化に伴い打楽器の要塞からも様々な音が繰り出される。マリンバビブラフォンなどの鍵盤打楽器から、バスドラム・スネアドラムなどの膜質打楽器、鈴(りん)やゴングなどの民族楽器、そしてリコーダーやオカリナなど何種類もの笛(もはや打楽器ではない!)が曲ごと、セクションごと、時には数音ごとに使い分けられる。これらの音の扱い方からはリゲティの音そのものへの強いこだわりが感じられる。演奏も彼のこだわりをよく捉えた集中度の高い演奏であり、曲ごとの性格の異なりはもちろんのこと、瞬間的な音のあり方の切り替えも鮮やかに提示しており、演奏後に会場から熱い拍手が送られた。

 終曲の《プッチーニ・アラ・カッチア》(2006)にはほとんど標準的な打楽器は登場しなかった。この作品はプッチーニの作品や手紙に出てくる鳥や銃をモチーフに作られたものだ。鳥を擬した楽器やスプリングドラムやサンダーシートなどを10人の演奏者が演奏するのだが、そこで生じる音は多層的なもので聴衆はその層を行き来しながら聴取を行う。すなわち、物体から発される音としての層、楽譜に記された音楽としての層、実際の(?)風景の音としての層である。例えば笛を全力で吹きながら両手でマラカスを目一杯振る姿や風船を足で思い切り割る様子を見ると、演奏者が眼前で音を出していることの認識を迫られる。しかし、反復構造を通して彼らが発するその音はやはり楽譜に書かれた音楽作品の一部であり、その記譜どおりに演奏していることが認識される(例えば、鳥の笛が毎回同じリズムで「演奏」されることに気づく)。また、すべての音は鳥や風や鉄砲の音を擬したものであり、聴者は遡及的にその風景を思い浮かべることもできる。このような音の流動性を非常にユーモラスな仕方で実現していることにこの曲の面白さがあると言えるだろう。

 この演奏会で演奏された4つの作品ははそれぞれ音そのものへのアプローチを行っている。それは執着と言っていいほどに突き詰められたものであり、演奏家もその執着を引き受けていた。すなわち、個々の音に対する強いこだわりをもって演奏を行っていることが感じられた。来年の演奏会においても、違った仕方で展開されるであろう彼らの取り組みを見て聴くことがいまから楽しみだ。

*1:極めて余談だが、声楽家の演奏を見るといつも不思議な気持ちになる。器楽であれば演奏する楽器と演奏家の身体との間に物理的な差が認められるが、声楽はいわば楽器と演奏家が同一なのであり、演奏する/されるが同じ身体に共存する。そのことによって、ピアニストやバイオリニストなどとは異なる身体のあり方が現れているように思えてならない。今後検討していきたい。