ブラックホール

書くことで何かを見つける日々です

戯曲と〈声〉について(私性と共同性)

 この文章は私がいま考えていることを深掘りするために書かれており、説得性に欠ける部分があるかもしれないが、それは一旦脇に置いておく。大事なのは未来の自分のためにいま思いついたことを勢いに任せて残しておくことだ。

 誰かが必要として自ら書いた言葉を、私が外部から簡単に否定することはできないし、したいとも思わない*1。私ではない人が執筆を通じて考えた物事は自分なりに引き受けることはできても、厳密には私の問題にはなりえない。また、誰かにとって大切なものとして生み出された文章にはその事実だけである種の力があると感じるからだ。ある時間の厚みのなかで記された真剣さを持つ書き物は、私個人の好き嫌いとは別の次元で一定程度尊重したくなる、敬意を払いたくなる何かを持っている。

 しかし、自らの記した言葉を外に向かって晒す手つきはよく吟味されねばならないとも思う。個的な問題に立ち向かうなかで紡がれた言葉を誰に向かってどのように伝えていくのか。あらゆる文章は多かれ少なかれこの問いとの格闘として形作られるといえるのかもしれないが、いま私は戯曲に絞って論を進める。
 戯曲は、役の〈声〉とその座となる俳優の〈声〉を媒介にして、私的な思考を展開させていくテクストだと最近の私は考えている。両方とも(執筆の段階では)自分の内にしか存在しない不確かなものだが、書き手はそれらの〈声〉を媒介にして思考し言葉を書き残す。〈声〉を聴きながら書いているのだ。それゆえ戯曲のなかには書き手でも読み手でもない様々な他者の〈声〉が潜在している。ここでいう「役の〈声〉とその座となる俳優の〈声〉」は、XというキャラクターやYという俳優などと結びつけられるようなものでなく、それゆえ固定された響きを持つわけではない。書き手の思考、戯曲の地層の深いところを流れ匿名と顕名を行き来するような声である。戯曲を書く者は役という虚構の装置を時に利用し時に棄却しながら書き進めていく。この多声性は書くことにおける私性を(有意義な)共同性へと開く鍵になるだろう。すなわち、自分ひとりでいながらにして自分の枠には収まらないような地点へとジャンプすることができる。自分の書いたテクストから時として発したことのない〈声〉が聴こえる。
 しかし、同時にこの私性と共同性(多声性)のバランスが難しい。〈私〉への傾斜が強まり過ぎると、より切実らしい、より重大かのような言葉が並ぶ。言語の一般性の壁に阻まれ私が抱える切実さはよくある紋切り型へと回収されてしまうのだ。他方で〈声〉への斟酌が過ぎると、戯曲内の構造に囚われ〈私〉にとって重要な問題は遠のいてしまう。それは作品が作られる意義の喪失と言って差し支えないだろう。だから、両者を拮抗させることが唯一作品を守りながら多数の他者へと差し出すための方法だと考えているが、その具体的な方途は私も探している最中だ。

 具体性に踏み込むために「Aでない」という仕方ででも考えを進めてみよう。いま私は、無批判に量産される現代口語演劇のようなものなど、日本(語)という磁場をもとに作られる集団を想定したある種の戯曲に難しさを感じている。主に日本語のみを使って生活している人物が日本語を使って作品を作ること自体は当たり前のことだろう。しかし、日本語を使って作品を作ることと、日本(語)をもとにした集団に対して書くことは異なることだと思う。例えば、固有名詞や冗長語の使用はそれ単体では無意味だ*2。それは単に「らしさ」を借りてきているだけで、そこで作られる共同性はあまり良いものではない。書き手と異なる私の居場所は十分に確保されないままである。しかし、事前に共有しているものをちりばめることで、〈私〉と〈私たち〉を短絡させることができるかのように思われている節があるのではないか。そのような囲い込みに対しては抗したいというのがいまの私の立場である。あくまで足がかりとして既知の事柄を用いることで少しでも新たな地点へと歩を進めるのが理想的であろう。

 さて、書く段階から離れたうえでもできる仕事が残っているはずだ。戯曲は運が良ければ実在する他者に読まれ、上演の場にあげられる。すると、紙上に印刷された〈声〉が劇場空間のなかで身体化され、共同性の幅はさらに広がる。それが有意義に働けば〈声〉は一層複雑なものとして聴き取られる。戯曲のなかに潜んでいた〈声〉が俳優の身体によって増幅・変形され、観客によって聴き取られる。それは豊かなことだろう。しかし、時として既存の何かを上塗りするものとして俳優の声が利用される場合がある。そのとき、物理的な声がいくら感情的になろうと〈声〉は非常に平坦なものとしてしか聴こえてこない。それは少なくとも私にとってはとても貧しいことである。本来的には演劇のテクストや演劇の起こる場には常に聴くべき〈声〉がある。その〈声〉を聴くことによって劇場の共同性は最終的に成立するといっても良いくらいだ。何をもって「聴くべき」といえるのかを端的に言語化することはいまの私には不可能だが、戯曲を書いたり稽古をしたり上演を観たりするなかで、その感覚を忘れないことがいまの私にとって重要なことだ。

*1:もちろん、他の誰かを不当に傷つけたり貶めたりするためのものであれば批判することもあり得よう。

*2:これは個人的なものだが、笑いと結びつくと許せる感覚がある。これはシリアスな私性の運動としてではなく、言語を遊ぶことができているからかもしれない。漫才やコントなども射程に入れつつ言葉にできれば良いのだが、いまはそこまで辿りつかず……。