ブラックホール

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世界で8番目に恥ずかしい言葉「親友」

親友という言葉が恥ずかしくなくなったのは最近のことだ。高校時代は「親友」なんて人付き合いのしすぎで気が狂ってしまった人間が使う言葉だと思っていた。それは臆面もなく真っ直ぐな言葉を放てる人間へのジェラシーでもあったのだろうし、そのことに気づいてもいたのだろうけど、そういう誠実さやまっすぐさから距離を取るのが自分のスタイルだと思っていた。

だから言葉にはしていなかったけれど親友だと思っている人間たちはいた*1。私は交友関係を広く持ちたがらないタイプなので、必然的に少数の友人と多くの時間を過ごすことになる。そして多くの時間を過ごした友人の中でも特に親しいと思える者のことを親友だという風に考えていたと思う。

ここでいう「親しい」とは具体的にどういうことなのか。当時の私にとっては語る言葉が同じだということだった。「つうといえばかあ」という表現があるが、まさしくそのような状態だ。自分と相手の使う語彙が同じになる。思考の世界が近接する。行動パターンが手に取るように分かる。そのような次元に達した人物とのコミュニケーションは外部から見たら気持ち悪いと思われるだろう。理解不能なやりとりでの享楽がそこにはある。閉鎖性が繋がりを密にし、さらに親密になっていくような感覚があった。

しかし、大学に入れば環境は変わる。同じ人間と8時半から16時まで同じ空間を共有するという高校まで存在した人間関係の基盤は崩れて、「よっ友」に代表されるような流動的な人間関係へとシフトしていく。そうなると言語の共有など夢のまた夢になる。その境地まで至るにはそれ相応の時間が必要だが、私たちにそんな時間はないからだ。共に過ごす時間の欠如を遊びに行ったり飲みに行ったりすることで補完するというのがオーソドックスなスタイルなのであろう。しかし今の所どうやっても高校時代のあの濃密さは取り返しようがない。

とはいえこの3年弱で親友と呼べるような友人ができたようにも思える。それは今までの親友とは違う姿をしているかもしれないが紛れもなく親友と呼べる。そういう人とは、一緒にいると安心する、そして安心するということを口に出していいと思える人間。読んでいる人は思うだろう、こいつは明らかに普通のことを言っている。そう、いま私はすごく普通のことを語っている。しかし、普通のことを普通に言うことが大事なのだ。私は一緒にいると安心するような、自己という存在が肯定されるのを感じるような、そのことを共有して良いと思えるような繋がりに改めて親友という名を与えたい。それはかつての〈言語=世界観〉の共同所有者としての親友ではない。話す言葉が違っても見ているものが異なっていても尊重しあえる。まっすぐに「親友」だと「好き」だと「愛」だと口にできる。そんな人間が私にとってのいまの「親友」だ。

(以上の文章はお題箱に投稿されたお題に対する応答です)

*1:言葉にしていないというのは実は嘘で、「私たち仲良くないんで」「僕たち親友だもんね〜(笑)」と皮肉めいたことを言いながら友情を確かめていた