ブラックホール

書くことで何かを見つける日々です

「話す/聞く」から「聞かれる/話される」へ

先日とあるワークショップに行ってから、人とのコミュニケーションについてよく考えています。そのワークショップでは、人の話を聞いたり人に話したりしながら自分や相手が意識的/無意識的に考えていることに気づいていくワークを行いました。その中で、自分が普段どうやって人と関わり合い、どういう関わりを求めているのかについて、少し見えてきたので文章にまとめてみたいと思います。

まず、ツイッターの話をしましょう。私は一日にそれなりの数のツイートをしていると思います。フォロワーの半分ぐらいからミュートされている想定でその場その時の思考を垂れ流しています。寝坊した、この曲好き、疲れた、RTした記事面白い、こんな演劇観たなど、脳内に生起するいろんな事柄のうち、社会性のふるいをパスしたいくつかのものが「つぶやき」として広大なWEBの地へと放流されているわけです。自分の発言に大した責任を持たずにいろんなことを語れて、もしかしたら誰かに見てもらえているかもしれないという曖昧な世界がそこには広がっています。
最近思うのは、これって私が現実世界で行なっているコミュニケーションに似ているのではないかということです。AさんとBさんとCさんが話しているその場のやりとり全体に対してツッコミらしき言葉を投げかける。普段自分が考えていることとその場で話されているトピックが一致した時、頭の中にある思考内容を突き出す。ある程度目の前の現象に影響を受けるものの、そこにあるのは「私」と「あなた」の対等な交わりというよりは「私」が「誰か」ないし「その場」に言葉を投擲する非対称的なあり方です。それは、タイムラインの中で多くの声に呼応し埋没しながら自分ごとをひたすら語っている姿にどこか似たものを感じます。
このようなコミュニケーション様式は私に友達が少ないのと関係している気がします。中高時代から知り合いは多いけど友達は少ないと自認しているのですが、それは私が舞台の上に立つタイプであることに起因していると思います。ここでの「舞台」とはあくまで比喩的な意味で、他者に対して自分を呈示する際の仕方が「舞台」と「客席」との類比によって理解できるということです。相手と同じ地平で向き合うのではなく、道化を演じ場に波風を立てることで「あんな奴がいるのか」と認知される。こちらから個人としてアクセスすることは少ないので、知り合いは多くなるけれどそれ以上の関係になることは少ないというわけです。このように一方的に知られることが常態化することで、自分と他者とを区分しつつ個別の対象として認識されない漠然とした「誰か」を指向するコミュニケーションが私の体に染み付いているのではないかと踏んでいます。
そこで話題は「話す/聞く」という動詞へと移っていきます。このアイデアは、上述のワークショップで1対1のインタビューワークの中で「あなたは聞かれる側をやってください」と言われたことをきっかけに思いついたものです。このワークは、いま自分の持つ問題意識について5分くらいインタビューを受けるものでしたが、その時私はまさに「あなた」を無視して自分の手持ちの考えをただ開陳することに終始してしまいました。そこではたと気づいたのです。「話す側」はできていたかもしれないが「聞かれる側」としては100%失格だったと。
「話す/聞く」は能動態です。「話す」に特徴的ですが、これは一人でも完結しうる行動です。あなたは話に1mmも興味を持っていない人に対して、可愛がっているぬいぐるみに対して、部屋の壁に対して滔々と話し続けることができます。相手のあり方を鑑みることなく自分のみで行動を完結できます。対して「聞く」ことは「話す」「歌う」「奏でる」「鳴らす」存在がいなければ成り立たないという点では外部に依存してはいますが、それでもやはりあくまで私が何かを聴取していることが一番重要です。私たちは日常で多くの音を聞いていますが、それが意識にのぼることは多くありません。多くの音がノイズとして処理され、自分にとって大事なものだけが無意識のうちに選別されているのです。そのようなことを鑑みれば単に「聞く」と言ったときには、相手を想定しているようで実のところ自分の慣れの範囲で漠然と受け流しているだけかもしれません。つまり、ここで言いたいのは「話す/聞く」の場では、先述のような漠然とした対象へのコミュニケーション、明確な他者を損なった関わり合いが起きやすい傾向にあると思う、ということです。
私は私のあり方を「聞かれる/話される」へと転化していくことでこの傾向性を解消したいと考えています。受動態は自分のあり方と相手の行為を同時に指し示すことのできる態です。「聞かれる」とは相手が私の話を聞いていること、私が相手に聞かれる何かを発していること、そして私がそれらのことを認識しているということが含意されています。中でも大事なのは、3つめの自己認識です。相手の行為を意識的に捉えることによって自分の態度を相対化して反省することが可能になります。
「聞かれる」という1語によってコミュニケーションの場の様相が一挙に表現されるダイナミズム、そして一見受け身で消極的なあり方を表すように思える受動態が逆に行為主体性を示唆する点に面白さが感じられます。話を「聞かれる」とき、何かを「話される」とき、そこには自分だけでなく相手とそれを含みこむ空間が浮かび上がり、それゆえに自分の態度と行為が逆照射されるのです。「聞かれる/話される」という言葉を意識することで、姿勢/態度/モードが変わっていく気がします。目の前に知性を持った人間が私と関係していることが否応なく飛び込んでくる。ここでは「あなた」の対象化によって漠々とした関わりを克服するとともに、さらに「私」と「あなた」の間で起こる交流/相互作用(interaction)までもが生じるのです。
「聞かれる/話される」というモードが持つ独立性と相互性、主体性と集団性の交わりによって私たちのコミュニケーションはより実り豊かで発展的なものになるのではないでしょうか。

ここから例えば台詞を事前に覚えて喋る俳優が如何にして自分の話を観客に「話せる=聞かれることができるか」「聞いて=話されてもらうか」などと話を展開していきたいのですが、まだまだ考えられていないのでとりあえず今はここまで…。