ブラックホール

書くことで何かを見つける日々です

Twitterを辞めました

Twitterを辞めました。正確に言えば、作ったものや書いたものを別のサイトに投稿したときなどはツイートでリンクを共有するつもり(この文章だってそう)なので完全に辞めたとは言えないですしアカウントを消すつもりもないのですが、Twitterのアプリを削除しタイムラインのチェックをしなくなりました。そんなこんなで今日で1週間が経ちます。

1週間前の水曜日はなんだかずっと元気が無くてゴロゴロしていたのですが、そんな中スマホ(本当はiPod Touch)を触りながらついついTwitterを見てしまっていました。そしていつの間にか読み込める限界(大体6時間くらい前までのツイート)までタイムラインを遡っている自分を発見するお決まりの流れです。俄然、何もする気が起きない。しばらく経つとまたTwitterを見ては布団に包まるルーティン。

正直今まで何回かTwitterを辞めようと思ったのですが、結局今の時代の情報収集ツールとして優れているために辞められずにいました。演劇公演やワークショップやコンサートのお知らせ・感想、素敵な音楽やネット記事のリンク、友人たちの生存情報などの情報を一括して手に入れられるTwitterはやはり凄いです。けれど、1週間前のその日にふと「情報を収集しなければならないと考えている自分」に気づいて、途端にバカバカしくなりました。こんなのは刷り込みです。観る/知る/聴くとよいものであったはずが触れるべきものと考えさせられている、つまり欲求がいつのまにか義務に置き換えられていることに気づきました(例えば、観れなかった演劇の感想ツイートを目にして、行けなかった自分や状況を呪うこと)。だから、TwitterなどのSNSが発するとめどない情報の波から距離を取り生活を送っています。Wi-Fiの電源も切っている時間が長く、LINEも1日に数度チェックするのみとなりました。Apple Musicもやはり際限なく音楽を届けてくれてしまうので、家の外ではあまり使わなくなっています。パソコンでノートを取るのも辞めました。時折、今はもうないTwitterのアイコンを押そうとして、こんなにも無意識にTwitterを見ていたのかと驚きます。

1週間Twitterを絶ってみて、これは新たな習慣を始めたときの興奮で判断能力が鈍っているだけかもしれませんが、ツイートすることによって流されていた思考がどんどん堆積している実感があります。外部からの情報が減少することによって、自分の頭の中に割けるリソースが増えているのでしょう。その結果、私はノートに日記をつけはじめました。今までほとんど続かなかった日記を誰に言われるでもなく欲求に従って書いています。自分の思考の流れが外部からの情報の流入によって断片化/弱体化されていたことに今になって気づきました。ツイートは便所の落書きとよく(?)言いますが、もはや私にとっては水洗トイレになっていたのでしょう。自分の感情や愚痴や意見を排泄し綺麗に流してしまう場所。たしかにそういう場を求めていましたが、それ故に他人の発言や意見だけでなく、自分の考えていることすらも消費してしまっていたことに恐怖を覚えます。もう140字で思考をするのは止めにします。ツイートすること、そのツイートを見る人を考慮に入れながら思考することを禁じます。私はこれから長くてしぶとい時間の過ごし方を徐々に取り戻すのです。

 

やっぱり、です/ます調は苦手です。動詞で文を終わらせることが多い、かつ、「〜のです」という言い回しは極力使いたくないので、文尾が「ます」だらけになってしまいます(× しまうのです)。日々訓練です。なぜかこの段落だけ「です」ばかりです。