ブラックホール

書くことで何かを見つける日々です

小田尚稔の演劇『悪について』のこぢんまりとした振り返り

小田尚稔の演劇『悪について』終演いたしました。お盆休みの時期にご来場いただいたみなさんや気にかけてくださった方々、ありがとうございました。

小田さんの作品は5月の『善悪のむこうがわ』から引き続いての出演だったので、前回やりきれなかった部分をしっかり詰めていくことを目標にしていました。例えば、舞台上の他者に反応しながら演技をすることや自分の行なっている演技を信頼する/できるように稽古することが不十分だというのが『善悪のむこうがわ』の反省としてありました。それを受けて、今回は台詞に内在する語り手の論理を保持しながら様々な環境との反応で演技を構築するという方針で挑みました。「台詞に内在する語り手の論理」というとなんだか小難しい感じですが、小田さんのテキストには言い淀みや回り道、話題の飛躍などが多く含まれていて、それらがなぜ生じているのかを説明するものとして導入した語り手の意識のことです。例えば「だから、学校にも行けない、単位も取れない、中退するのは、、なんとなく嫌、、、なので、頑張って入った大学だってこともあるし」という台詞があります。ここでは、「だから」で前の台詞(日中している仕事の説明)を受けて、仕事をしているために大学に行けない、それゆえに単位取得が困難であることを語ります。そののち、だからといって中退するという別の大きな選択肢は選べないと述べていますが、ここでの「、、なんとなく」は実際に中退することを想像して「やっぱり嫌だな」と思う潜在的な意識による言い淀み/迂回だと解釈しました。そして、「なので」で次の話題に行くと見せかけて、聴き手のことを考えて先程は「なんとなく」で済ませた中退したくない理由を説明します。今回の『悪について』では全ての台詞についてこのような作業を読みの段階で行い、それとともに台詞を覚えていくようにしました。そのことによってまず「台詞が言えない」状態は基本的には避けられたと思います。ここでの「言えない」は「発話できない」ということではなく、自分の演技の中で意味付けられたものとして台詞が存在できないことを意味しています。また、多様な可能性に開かれた身体であるための下準備にもなりました。台詞をただしゃべっているだけでは、目の前にいる俳優が書かれた台詞以外は基本的に喋らないのだということが観客に透けて見えてしまいます。もちろん台詞は一通りの書かれ方しかしていませんが、その背後にはもしかしたら選択されていた語や表現が隠れています。それを語り手の論理という形で引き受けることによって、様々な可能性の中からいまここでひとつの台詞を語るという状態をある程度は実現できたのではないでしょうか。

ただ、読み取った語り手の論理をそのまま演技するわけではありません。それでは結局独りよがりの演技になってしまう。語り手の論理の把握はあくまで刻一刻と移り変わっていくテキストを有意味なものとして発話するための準備として行い、意識の流れをインストールした状態で舞台の上に立って発話の相手(観客ないし俳優)や台詞に出てくる情景への反応で演技を行うようにしていました。この「反応」ということに関しては私の中でまだ言語化が十分になされていなくうまく説明できないのですが、これまで他の俳優や演出家に「他者と関係するように」「外部のものによって振り付けられるように」などと言われていたことと地続きに考えられます。先ほどの「多様な可能性に開かれた身体」とも繋がりますが、いまここにおいて新たなものが生まれる感覚が生じる演技を実現するために「反応」が要請されるのでしょう。特にダイアローグに関しては前回めちゃくちゃ苦労したのですが、今回は散策者の発表会におけるいくつかの実践のおかげでかなり開いた状態で演技ができたのではないかと思っています。だんだん書くの飽きてきた。

今回の反省としては、やはり最初のワンマン演技コーナーが難しかったという部分が挙げられます。この部分ではお客さんを共演者として演技をするので、私の演技のありようは観客の「演技」のありように規定されます。稽古場では肯定的でも否定的でも何らかの反応を返してくれるような「理想的な観客」を想定して稽古をしていました。公演中ある回はその想定していた「理想的な観客」が奇跡的に大挙してやってきたので反応による演技の構築がうまく進んだのですが、そうでないと反応がないことに反応するか自分ひとり(あとは久世さん)で補わなければいけなくなります。ただそうすると、負の方向に走るか、独力で元気良く演技をするようになってしまいます。前者では観客との距離がどんどん遠くなってしまいますし、後者では結局は独りよがりの演技になる恐れがあります。公演が始まってからはその両者での迷いのなかで演技をするほかありませんでした。おそらく対処としては観客側に反応を促すような設計をするか、観客の態度に左右されない演技をするかが考えられると思いますが、公演期間中はもうどうにもならない問題として脇に置くこととしました。テキストが要請する演技と実際の環境でできる演技には差異があることを再確認しました。本当に飽きてきた。

明後日から奈良県の山奥でワークショップに参加するので、新たな発見があることを祈るばかりです。それでは、またの機会に〜。