ブラックホール

書くことで何かを見つける日々です

詩の上演としての合唱(Combinir di Corista第11回定期演奏会)

 人生3度目、1年ぶりくらいに合唱の演奏会に行ったがすごく収穫のある時間だった。といってもここで触れる収穫は演奏会のメインに据えられた信長貴富の作品「静寂のスペクトラム」によるものである。そして、この作品は合唱音楽として、いや、もっと広く捉えて「書き言葉である詩を発話する営み」として示唆に富んでいた。

 「静寂のスペクトラム」はCombinir di Coristaの委嘱を受け信長貴富が作曲した混声合唱とピアノのための作品である。この曲は4つの部分に分かれ、どれも日本の現代詩人の詩に曲がつけられている。それぞれ「I 絶景ノ音」は岡本啓、「II さくらとらくだ」は新国誠一、「III 単調な空間」は北園克衛、「IV とてつもない秋」は和合亮一の詩が用いられており、年代は違えどどれも戦後に書かれた日本の現代詩だ。

 ところで、日本の合唱作品、特に合唱コンクールや卒業式などで歌われる触れる機会の多い合唱曲の詩は情景や心情の描写表現や(教訓めいた)メッセージ性を含んでいることが多い。これらの詩は黙読したときと朗読を聴いたときの差が小さい。

この気持ちは何だろう
この気持ちは何だろう
目に見えないエネルギーの流れが
大地から足の裏を伝わって

木下牧子作曲・谷川俊太郎作詩「春に」より)

言葉にすれば僕達がめぐり逢い
一人じゃないと確かめ合えるときを
言葉にすれば僕達がめぐり逢い
見つめる瞳に高鳴る喜びが
あなたという名の未来の自分へ
扉を開こう重なる物語
さあ聞こえる今すぐ新たな未来がめぐり逢う

安岡優作詩曲・松下耕共作曲「言葉にすれば」より)

だからわたし
考えなければならない
誰のまねでもない
葉脈の走らせ方を
刻みのいれ方を
せいいっぱい緑をかがやかせて
うつくしく散る法を
名づけられた葉なのだから
考えなければならない
どんなに風がつよくとも

新川和江作詩・飯沼信義作曲「名づけられた葉」より)

主に中学高校で触れた合唱曲から何曲か歌詞を持ってきた。もちろん、日常的な語の運用とは異なるものの、意味内容や描写対象の伝達が比較的容易な詩だということが体感できるだろう。

 しかし「静寂のスペクトラム」に採用されている詩は確実に書き言葉として構築されており、単純な仕方ではパロールに置換できないものばかりだ。Iは語や文の途中でなされる改行が日常的な言葉のあり方や意味を揺らがせている。IIは、「桜」や「駱駝」といった言葉がひらがなで書かれ18文字×10文字のグリッド状に配置されることで読者による様々な分節化を促すものになっている。IIIは「白い四角/のなか/の白い四角/のなか/の黒い四角/…」というように反復構造と包含関係を持ち、それが改行を活用することによって強調されている。IVはエクスクラメーションマークがその他の文字と同じくらい多用されており、それが詩の印象を大きく操作している。すなわち、どれも書き言葉としての視覚的側面を重視した詩であり、その理解には目で読むことが必要に思える。そのような視覚にアピールする詩を概ね聴覚的に把握するしかない合唱曲にアダプテーションする意義はあるのだろうか。

 ここでいう意義とは、詩を合唱曲に転化することによってもともと詩に内在する芸術的価値がより明確に提示されたり曲が付くことによって新たな芸術的価値が創出されることだと言いかえられる。そのようなことが「静寂のスペクトラム」には起こっていた。例えば、Iでは巨視的な詩の内容と改行・空白という形態を人の声によってこそ出せるような音の複雑な重なりと自然な推移によって聴覚的に置き換え。IIでは元の詩ではさ・く・ら・だの4文字が組み合わさることで、別の言葉(さく、らく、くらく等)を読み取ることが企図され詩には凡例がつけられている。

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合唱版では概ね一文字ごとに発音がなされており、元の詩におけるひらがなの物質性を聴覚的に感じさせる。そこに「サラダ」や「堕落」や「管」など凡例には載せられていないものも聴取される。また、同時に複数の文字が音量を変えながら発音されたり、音の持続の中で発音される文字が変化することによってミニマリズム的な緩やかな知覚の変化が引き起こされる。IIIでは、歌唱は抑制的になされ演奏者が振付を踊る。四角をイメージしたであろう振り付けは、最初は歌唱とセットで遂行されるが、やがてピアノ伴奏のみになり最終的には無音の中で動きだけが残る。音楽を視覚的な振りと合わせることで詩の持つ無限遠の単調さを際立たせている。IVは基本的に!が視覚的にもたらす強迫的なインパクトを音の連打や複合拍子の多用によって提示している。ほとばしる激流のような言葉が視覚から聴覚に置き換えられ。また、けたたましい演奏が終了するとホールには静寂が訪れる。その徹底的な無音のなかに喧しさー「とてつもない悲鳴」ーが響き渡る。
 また、それぞれの詩の特徴を十分に生かす上で、ピアノが詩の支持体、すなわち紙として存在できることが強く感じられた。どの詩も余白や空白、行分けの仕方に工夫があり。それは紙に詩が印刷されるという文化によって生み出された表現方法だが、それを歌がピアノを伴って歌われるという合唱の文化に転化できるのだ。少なくともこの作品においてはピアノ伴奏によって詩を読む際に生じるであろう空白を読む/視る時間や声にならない記号や詩の肌理を表現し、詩の表現に肉迫しながら音楽による独自の表現を可能にしている。

 実は最近詩を上演することに興味があり調査・検討しなければならないことを考えていて、例えば詩の朗読やポエトリーリーディングなどが実際にどのように行われ受容されているのかを考えたいと思っていた。しかし、こんなにも近くに詩を上演している芸術ジャンルがあったとは!とはいえ、出版社の解説によれば「テキストの前衛性に対し、音楽はやや保守的な手法を使いながら、テキストの視覚的側面を音で導いている」*1

とのことで、これだけ新鮮な驚きを得ているのは自分の無知にも起因していそうであるから、詩と合唱曲の関わりについて丹念な調査が必要だろう。