ブラックホール

書くことで何かを見つける日々です

順応不可能人間の負け惜しみ

うちの大学では演技を実践的に学ぶ授業が今年度から(?)開講されます。僕は今年から俳優として演劇創作に関わってはいますが、演技についてはよく分からないと感じていて、そんな時にこの授業の存在を知り履修することにしました。たがしかし、6限にもかかわらず多くの人が受講を希望し、充実した授業を行うには人数があまりにも多すぎるために選考が行われることになり、先週と今日色々とワークをしていました。そして、今日の授業の最後に結果発表があって、僕は残念ながら落ちました。正直合格者発表の前から落ちた気はしていたんですが、やっぱり落ちていました。落ちた理由もなんとなくわかるし、僕が講師の立場だったらきっと落とす。だから結果に文句はありません。なんだか「落」ばかり書いていると気分まで落ちてくる。南落合。ここまでくるとゲシュタルト崩壊したもん勝ちですな。

「選ばれない」のはなんであれ悲しいことです。全然好きじゃない人に「ごめん、君タイプじゃないんだよね」といきなり言われて「あ、はい」と受け流したとしても後々なんだか気になってしまうように、誰かに選ばれないことはそれ自体で悲しいし寂しいことです。それほど気持ちがなかったとしても選ばれないことを通して悔しさが芽生えてしまいます。僕の場合はただの授業なので良いですが、世の就活生達は自分の一生を強く規定するかもしれないさまざまな会社から選ばれないという苦々しい経験を繰り返すのだと思うと身の毛もよだつ心地がします。

でも、選ばれるために自分を擦り減らすのはもっと悲しいのだろうなとも同時に思います。いや、そんなにソフトな感情ではないです。選ばれるために努力することは真っ当なことだと頭では理解できますが、僕は選ばれる目的に向かっていく身体を肯定できません。選ばれたい欲求に溢れた身体で満ちた空間が耐えられません。特定の価値基準に合わせようとする人々の蠢きに触れると気分が悪くなります。オトナじゃないねと馬鹿にされようと駄目なんです。選ばれるために努力するのはエチケットなんだよと諭されようと無理なんです。なんでそんなに声が出せるの?なんでそんなに俊敏に動くの?もっと柔らかく生きられたらなあ。

僕は色んなことが恥ずかしいです。基本的に「人に指示をされてその指示した人を目の前に何かをする」ということがものすごく恥ずかしいです。だから、バイトで何か仕事を任されてもそれを指示した人が近くに居ると落ち着かなくてアワアワしてしまいます。演劇でも、稽古中演出家などの観ている人がコメントをくれて次はそれを受けて修正を施して演技をする構造になってますが、明らかにそれに向いていません。意図を持って行為していること、そしてそれがどんな意図かを他人に知られた状態で行動することが本当に恥ずかしいんです。そういう恥の体系が僕の中にはあるから、他の人が指示に従って、特に見えない指示を斟酌して自らをアピールするとき、途轍もない疎外感を感じます。僕にはそんなことできないし、それが褒めそやされる空間では呼吸できない*1

恥をコントロールする必要はきっとあるはず。そのことは分かっています。けれど、たぶん僕には恥をかなぐり捨てて行動することは不可能だし、そこを目指したいとも思っていないんだと思います。どうやったら欲望と恥の折り合いをつけながら善く生きられるのかを僕は考えていこうと思います。まだ答えは出ないので、でも出したいので。

とりあえず木曜は全休になってしまいました。バイトでも行ってお金を稼ぐとしますかね。それでいい感じのワークショップとか行こう。美術館とかギャラリーとか映画館にも行こう。あと、美味しいご飯も食べよう。夏秋は旅行に行こう。

*1:これは僕の価値体系の話であって、他人が自分の目的のために行動することを咎める意図はありません。どちらかといえば、そういう行動を強いるような環境に対して反感を抱いています。