ブラックホール

書くことで何かを見つける日々です

銭湯が好きだという話

今の時代、家にお風呂がありそのお風呂に入るのが普通で、銭湯は気分が乗った時とかめっちゃ汗かいた時とかに行く特別なものになっているんじゃないだろうか。まあ、一人暮らしの人とかはそうじゃないのかもしれないけれど、少なくとも実家住まいの僕にとってはそうだ。銭湯なんて一人じゃ滅多に行かなくて、おじいちゃんとか友達とか仲の良い人たちと時々行くところ。近所にいくつか銭湯はあるけれど、行ったことがあるのは2,3回。去年一年で行ったのも2,3回くらいか。「そんなんで銭湯が好きっていうなよ」という反論が来そうだけれど、ごめん、私の銭湯好きは銭湯マニアということではない。だからこの文章も「神奈川の名湯10選」とか「東京の穴場銭湯100選」とかそういう趣旨の文章ではない。私の銭湯好きは銭湯という場と銭湯に行くという行為自体に対する愛なのだ。
お風呂に入るっていうのは、僕たちにとってすごく日常的なことだと思う。お風呂に入らないと不潔な感じがするし、お風呂に入ることで1日の疲れをリセットできるみたいなところもあったりする。「お風呂にする?ご飯にする?」という定型文が成立するくらいには日々の生活に浸透しているだろう。もしかしたら毎日バラの花を浮かべアロマかなんかを注いでお風呂をただの反復行為以上のものにしている人もいるかもしれないけど、大体の人にとって入浴は日常のルーティンに組み込まれた取るに足らない活動の一つだろう。「お風呂入るのめんどくせ~」って言われちゃうくらいの存在感。
それに対して銭湯に行くっていうのはなんか特別な感じがする。いつも行かない場所だし装いも少し時代を超えている感じがあって、出所のわからないセンチメンタリズムを呼び起こす。ケロリンがあったり、マッサージ機があったり、富士山があったり。そこに固有の物があるということで他でもなく銭湯にきていることが強く感じられる。家に体重計がないから体重測ったりしちゃう。さらには、いろんな人が集まってそれぞれの時間を過ごしている。近所のお兄さんとか、どこかの国からの観光客とか、仙人みたいなおじいさんとか。異なる属性の人が一緒の空間にいる。その人々の間には、ちょっとだけ会話が生まれたり生まれなかったり。銭湯の外では会うことのないような人たちが少しだけ時間と空間を共にする。プライスレス。
でも、銭湯はただただ特別な場所なわけじゃない。その特別な場所で入浴という極めて日常的な行為をする非日常と日常が交わる場なのだ。え、やばくない?銭湯は「その場に行く」という行為においては非日常であり「お風呂に入る」という行為においては日常である。その非日常と日常の混交が僕の心をくすぐる。いやあ、やばい。もはや、エロい。だから、銭湯は一人で行くよりも複数人で行くほうが良いのだ。ちょっと論理が飛躍した感があるけど、論理の問題じゃねえんだよ。
思えば、合宿の朝ほかの人が歯を磨いている姿、ふとした時に鏡に映る友達の顔、友達が家族と会話する様子、そういうものに私は惹かれる。彼/彼女と日常的に交流しているけれど、私には普段見ることのできない日常を彼らは抱えている。それを垣間見ることのできる瞬間が堪らなく愛おしい。そしてまた、非日常的な空間・時間・行為を日常生活を共にしている人々と共有することの尊さも存在する。いつもと違う興奮をいつもと同じ人たちと味わうそのズレが私を小躍りさせる。修学旅行の夜のワクワク感がふと蘇る。
というわけで、今日は大学の友達と銭湯に行きました。本当にクソほど熱くてヒィヒィ言いながら出たり入ったりして、今はもう心も体もぽっかぽかです。軽い気持ちで行ったのだけれど、いざ行ってみたら言葉にしたくないくらい楽しかったので、自分の思いに従ってみなさんには共有してあげません。文字通り(literally)くだらないことを話して笑いあえる存在の大切さを噛み締めたけど、自分の大学に話せる人がいるって大事だと再確認したけど、そんなこと詳しく素敵になんて説明してあげません。エモいとか尊いとかラブいとか、そうやって言葉で区切りたくない感情が渦巻いているのに身を任せて、眠りにつきます。ああ、でもやっぱり、うん、愛だね。
帰り道、ほんのりと温かい身体からいつもと違う石鹸の匂いが上がってきて、今日のことはきっと忘れないだろうと思った。

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