ブラックホール

書くことで何かを見つける日々です

街は甦るときがいちばん美しい

昨夜は猛烈な台風への恐怖を抱きながら司会として参加した演奏会の打ち上げに行ったが、結局大して雨に降られることもなく家に帰り、なおかつ自宅からとてつもない暴風雨を見届けることができる素晴らしい夜だった。安全なとこから見る暴風雨と雷雨ほどワクワクするものはない。とはさすがに言い過ぎだが、とても楽しい営みであることは確かだ。何と言ってもタダだし。

そして、一夜明け、台風一過。我が家のベランダから見る景色は爽やかな晴天だった。明らかに湿気が多くて本当はあまり爽やかではないのだが、昨夜に比べれば相対的にすごく爽やかだった。その見せかけの爽やかさに乗せられて、意気揚々と稽古に向かうために最寄り駅まで歩く。しかし、家を出ると街に漂う雰囲気がいつもと違う。慣れ親しんでいて意識に上らないこの街の姿が今日はいやに存在感を増している。とはいえ、倒木があったり、あるはずの看板がなかったりするわけではなかった。ただ、街とそこにいる人々の質感が平常とは異なっていた。だんだんと駅に近づくとその正体はすぐにわかった。わざわざ駅の構内に入るまでもなく、これは電車が止まっているのだと気が付いた。それは階段や歩道の段差など人が座らないようなところに人が座っていたり、歩道の途中や店舗の前に大の大人が何人も立ち止まっていたりする光景から容易にわかることだった。いちおう駅の改札まで行くと、バリケードが張られ、駅員がしばらくは運休が続く旨を拡声器を挟んで伝えていた。もちろん、駅前のマクドナルドの入り口には長蛇の行列があり、何も停まっていないタクシー乗り場には期待だけを抱いた多くの人が待ちぼうけていた。いちばん後ろの人は何を考えてあの列に並ぶのだろうか。駅ビルの中の店も半分ほどしか開いておらず、みなどうやって行き先へ向かうか、どうしようもない暇をどのようにして埋めるか苦心しているように見えた。

ひとしきり人々の混乱のさまを味わったのち、私も電車が動いていないとなるとどうしようもないのでとりあえず一時帰宅した。Slackで稽古に遅れそうだと皆に連絡すると、そこで多くの鉄道が運休していること、そして稽古場である学生会館が今日は開かないことを知った。思いのほか大変なことになっていたのだなとか、稽古はしたかったなとか、とはいえ最近忙しいから休息が生まれてよかったなとか色々な思いがあったが、今日の街は素敵だったなというのがいちばん強い思いだ。

今日の街は美しかった。木々から剥がれた葉や、どこから現れたなにものなのかわからない屑などは散乱していたが、やはり美しかった。今日、私は改めて自分の住む街に人が住んでいることを認識した。もちろん、いつでも人はいる。毎朝一緒に電車に乗る彼らやレストランで隣の席に座る彼女らは昨日も一昨日も、きっとこの街に住んでいた。けれども、普段私は本当に彼らを人間として認識していたのか。この街を自分や自分でない人間が棲まう場所と見なしていたのだろうか。今日は多くの人が自分の住む街を使っていた。街を使うのは難しいことだ。街に設えられた多くのものには機能が先立って定められていて、人はその無言のインストラクションに従って生きている。街を使っているのか、それとも使われているのか、判然としない。でも今日は普段人の座らないところ、立ち止まらないところに人が溢れていた。それは単に電車が動いておらず仕方がないからそこにいるのだし結局はマクドナルドが盛況なのだが、それでも仕方なさは人を自由にさせるとも言える。平常時であれば憚られるような仕方で街を使い関わる人を見ていて、私の住んでいる街もまた人の居るところなのだと安堵した。必要に塗り固められているのではない街がそこにあった。

台風は街を半殺しにしていった。人はそのダメージをなんとか回復するために奔走した。そして、その復活の兆しにおいて街も人間も生きていることを実感せずにはおれない。不自由の中で私たちは自分たちの居場所を探す。それは以前から私たちの目の前にあったけれど、気づかれなかった場所だ。そういう普段ひそかに抱えている制約の向こう側にある豊かさを今日の街は垣間見せてくれた。しかしもう既にああいう街の姿はなかったことになっている。私はもうひとまずは回復した電車で稽古*1(今日は二つの稽古をハシゴする予定でこちらは夜からのため中止にならなかった)に向かう道すがらこれを書いている。街は定められた機能の中で役割を果たすいつもの街に戻っていく。そちらの方が結局便利だから私だってそこから逃れられないのだけれど、でも今日のような街に再び出会える日を期待してしまう。安定した秩序も完全な死も完璧な復活も街を静的にしてしまう。この混乱からの一時的な甦りの時こそ、街と人がいちばん美しい瞬間だ。

*1:青年団リンクキュイ『景観の邪魔』に出ます!まさにこういう話なのでみんな来てね!

小田尚稔の演劇『悪について』のこぢんまりとした振り返り

小田尚稔の演劇『悪について』終演いたしました。お盆休みの時期にご来場いただいたみなさんや気にかけてくださった方々、ありがとうございました。

小田さんの作品は5月の『善悪のむこうがわ』から引き続いての出演だったので、前回やりきれなかった部分をしっかり詰めていくことを目標にしていました。例えば、舞台上の他者に反応しながら演技をすることや自分の行なっている演技を信頼する/できるように稽古することが不十分だというのが『善悪のむこうがわ』の反省としてありました。それを受けて、今回は台詞に内在する語り手の論理を保持しながら様々な環境との反応で演技を構築するという方針で挑みました。「台詞に内在する語り手の論理」というとなんだか小難しい感じですが、小田さんのテキストには言い淀みや回り道、話題の飛躍などが多く含まれていて、それらがなぜ生じているのかを説明するものとして導入した語り手の意識のことです。例えば「だから、学校にも行けない、単位も取れない、中退するのは、、なんとなく嫌、、、なので、頑張って入った大学だってこともあるし」という台詞があります。ここでは、「だから」で前の台詞(日中している仕事の説明)を受けて、仕事をしているために大学に行けない、それゆえに単位取得が困難であることを語ります。そののち、だからといって中退するという別の大きな選択肢は選べないと述べていますが、ここでの「、、なんとなく」は実際に中退することを想像して「やっぱり嫌だな」と思う潜在的な意識による言い淀み/迂回だと解釈しました。そして、「なので」で次の話題に行くと見せかけて、聴き手のことを考えて先程は「なんとなく」で済ませた中退したくない理由を説明します。今回の『悪について』では全ての台詞についてこのような作業を読みの段階で行い、それとともに台詞を覚えていくようにしました。そのことによってまず「台詞が言えない」状態は基本的には避けられたと思います。ここでの「言えない」は「発話できない」ということではなく、自分の演技の中で意味付けられたものとして台詞が存在できないことを意味しています。また、多様な可能性に開かれた身体であるための下準備にもなりました。台詞をただしゃべっているだけでは、目の前にいる俳優が書かれた台詞以外は基本的に喋らないのだということが観客に透けて見えてしまいます。もちろん台詞は一通りの書かれ方しかしていませんが、その背後にはもしかしたら選択されていた語や表現が隠れています。それを語り手の論理という形で引き受けることによって、様々な可能性の中からいまここでひとつの台詞を語るという状態をある程度は実現できたのではないでしょうか。

ただ、読み取った語り手の論理をそのまま演技するわけではありません。それでは結局独りよがりの演技になってしまう。語り手の論理の把握はあくまで刻一刻と移り変わっていくテキストを有意味なものとして発話するための準備として行い、意識の流れをインストールした状態で舞台の上に立って発話の相手(観客ないし俳優)や台詞に出てくる情景への反応で演技を行うようにしていました。この「反応」ということに関しては私の中でまだ言語化が十分になされていなくうまく説明できないのですが、これまで他の俳優や演出家に「他者と関係するように」「外部のものによって振り付けられるように」などと言われていたことと地続きに考えられます。先ほどの「多様な可能性に開かれた身体」とも繋がりますが、いまここにおいて新たなものが生まれる感覚が生じる演技を実現するために「反応」が要請されるのでしょう。特にダイアローグに関しては前回めちゃくちゃ苦労したのですが、今回は散策者の発表会におけるいくつかの実践のおかげでかなり開いた状態で演技ができたのではないかと思っています。だんだん書くの飽きてきた。

今回の反省としては、やはり最初のワンマン演技コーナーが難しかったという部分が挙げられます。この部分ではお客さんを共演者として演技をするので、私の演技のありようは観客の「演技」のありように規定されます。稽古場では肯定的でも否定的でも何らかの反応を返してくれるような「理想的な観客」を想定して稽古をしていました。公演中ある回はその想定していた「理想的な観客」が奇跡的に大挙してやってきたので反応による演技の構築がうまく進んだのですが、そうでないと反応がないことに反応するか自分ひとり(あとは久世さん)で補わなければいけなくなります。ただそうすると、負の方向に走るか、独力で元気良く演技をするようになってしまいます。前者では観客との距離がどんどん遠くなってしまいますし、後者では結局は独りよがりの演技になる恐れがあります。公演が始まってからはその両者での迷いのなかで演技をするほかありませんでした。おそらく対処としては観客側に反応を促すような設計をするか、観客の態度に左右されない演技をするかが考えられると思いますが、公演期間中はもうどうにもならない問題として脇に置くこととしました。テキストが要請する演技と実際の環境でできる演技には差異があることを再確認しました。本当に飽きてきた。

明後日から奈良県の山奥でワークショップに参加するので、新たな発見があることを祈るばかりです。それでは、またの機会に〜。

詩の上演としての合唱(Combinir di Corista第11回定期演奏会)

 人生3度目、1年ぶりくらいに合唱の演奏会に行ったがすごく収穫のある時間だった。といってもここで触れる収穫は演奏会のメインに据えられた信長貴富の作品「静寂のスペクトラム」によるものである。そして、この作品は合唱音楽として、いや、もっと広く捉えて「書き言葉である詩を発話する営み」として示唆に富んでいた。

 「静寂のスペクトラム」はCombinir di Coristaの委嘱を受け信長貴富が作曲した混声合唱とピアノのための作品である。この曲は4つの部分に分かれ、どれも日本の現代詩人の詩に曲がつけられている。それぞれ「I 絶景ノ音」は岡本啓、「II さくらとらくだ」は新国誠一、「III 単調な空間」は北園克衛、「IV とてつもない秋」は和合亮一の詩が用いられており、年代は違えどどれも戦後に書かれた日本の現代詩だ。

 ところで、日本の合唱作品、特に合唱コンクールや卒業式などで歌われる触れる機会の多い合唱曲の詩は情景や心情の描写表現や(教訓めいた)メッセージ性を含んでいることが多い。これらの詩は黙読したときと朗読を聴いたときの差が小さい。

この気持ちは何だろう
この気持ちは何だろう
目に見えないエネルギーの流れが
大地から足の裏を伝わって

木下牧子作曲・谷川俊太郎作詩「春に」より)

言葉にすれば僕達がめぐり逢い
一人じゃないと確かめ合えるときを
言葉にすれば僕達がめぐり逢い
見つめる瞳に高鳴る喜びが
あなたという名の未来の自分へ
扉を開こう重なる物語
さあ聞こえる今すぐ新たな未来がめぐり逢う

安岡優作詩曲・松下耕共作曲「言葉にすれば」より)

だからわたし
考えなければならない
誰のまねでもない
葉脈の走らせ方を
刻みのいれ方を
せいいっぱい緑をかがやかせて
うつくしく散る法を
名づけられた葉なのだから
考えなければならない
どんなに風がつよくとも

新川和江作詩・飯沼信義作曲「名づけられた葉」より)

主に中学高校で触れた合唱曲から何曲か歌詞を持ってきた。もちろん、日常的な語の運用とは異なるものの、意味内容や描写対象の伝達が比較的容易な詩だということが体感できるだろう。

 しかし「静寂のスペクトラム」に採用されている詩は確実に書き言葉として構築されており、単純な仕方ではパロールに置換できないものばかりだ。Iは語や文の途中でなされる改行が日常的な言葉のあり方や意味を揺らがせている。IIは、「桜」や「駱駝」といった言葉がひらがなで書かれ18文字×10文字のグリッド状に配置されることで読者による様々な分節化を促すものになっている。IIIは「白い四角/のなか/の白い四角/のなか/の黒い四角/…」というように反復構造と包含関係を持ち、それが改行を活用することによって強調されている。IVはエクスクラメーションマークがその他の文字と同じくらい多用されており、それが詩の印象を大きく操作している。すなわち、どれも書き言葉としての視覚的側面を重視した詩であり、その理解には目で読むことが必要に思える。そのような視覚にアピールする詩を概ね聴覚的に把握するしかない合唱曲にアダプテーションする意義はあるのだろうか。

 ここでいう意義とは、詩を合唱曲に転化することによってもともと詩に内在する芸術的価値がより明確に提示されたり曲が付くことによって新たな芸術的価値が創出されることだと言いかえられる。そのようなことが「静寂のスペクトラム」には起こっていた。例えば、Iでは巨視的な詩の内容と改行・空白という形態を人の声によってこそ出せるような音の複雑な重なりと自然な推移によって聴覚的に置き換え。IIでは元の詩ではさ・く・ら・だの4文字が組み合わさることで、別の言葉(さく、らく、くらく等)を読み取ることが企図され詩には凡例がつけられている。

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合唱版では概ね一文字ごとに発音がなされており、元の詩におけるひらがなの物質性を聴覚的に感じさせる。そこに「サラダ」や「堕落」や「管」など凡例には載せられていないものも聴取される。また、同時に複数の文字が音量を変えながら発音されたり、音の持続の中で発音される文字が変化することによってミニマリズム的な緩やかな知覚の変化が引き起こされる。IIIでは、歌唱は抑制的になされ演奏者が振付を踊る。四角をイメージしたであろう振り付けは、最初は歌唱とセットで遂行されるが、やがてピアノ伴奏のみになり最終的には無音の中で動きだけが残る。音楽を視覚的な振りと合わせることで詩の持つ無限遠の単調さを際立たせている。IVは基本的に!が視覚的にもたらす強迫的なインパクトを音の連打や複合拍子の多用によって提示している。ほとばしる激流のような言葉が視覚から聴覚に置き換えられ。また、けたたましい演奏が終了するとホールには静寂が訪れる。その徹底的な無音のなかに喧しさー「とてつもない悲鳴」ーが響き渡る。
 また、それぞれの詩の特徴を十分に生かす上で、ピアノが詩の支持体、すなわち紙として存在できることが強く感じられた。どの詩も余白や空白、行分けの仕方に工夫があり。それは紙に詩が印刷されるという文化によって生み出された表現方法だが、それを歌がピアノを伴って歌われるという合唱の文化に転化できるのだ。少なくともこの作品においてはピアノ伴奏によって詩を読む際に生じるであろう空白を読む/視る時間や声にならない記号や詩の肌理を表現し、詩の表現に肉迫しながら音楽による独自の表現を可能にしている。

 実は最近詩を上演することに興味があり調査・検討しなければならないことを考えていて、例えば詩の朗読やポエトリーリーディングなどが実際にどのように行われ受容されているのかを考えたいと思っていた。しかし、こんなにも近くに詩を上演している芸術ジャンルがあったとは!とはいえ、出版社の解説によれば「テキストの前衛性に対し、音楽はやや保守的な手法を使いながら、テキストの視覚的側面を音で導いている」*1

とのことで、これだけ新鮮な驚きを得ているのは自分の無知にも起因していそうであるから、詩と合唱曲の関わりについて丹念な調査が必要だろう。