ブラックホール

書くことで何かを見つける日々です

1月過ぎて、2月。空間を構想しつつ、ひかりの歌。

気がついたら1月が終わっていた。1月下旬に急に熱が出てしばらく寝込んでいたから、その分が時間の体感から抜け落ちていて何だか20日くらいで過ぎ去ったかのようだ。久方ぶりに外へ出ると階段の歩き方や雑踏の中での身のこなしが退化していて、社会性が不断の努力によりかろうじて維持されているものだと体感する。

最近、建築に、より正確に言えば建築的思考に興味を持っている。建築的なものの見方が演劇だとか芸術だとかもしくは人間の生活だとかに深い部分で繋がっているのではないかという予感がしていて、建築家と呼ばれる人たちが抱えている思考を自分の中に巡らせたい。そんな思いがあり、手始めに図書館で目に留まった原広司・黒川千次『ヒト、空間を構想する』を読んでみた。この書籍は建築家の原広司と小説家の黒川千次の相互レクチャーの記録であり、彼らの思考が行きつ戻りつの中で現象していくのを読者が立ち会うことになる。全5章から成るのだが個人的には第2章の「均質空間の呪縛」が面白かった。黒川は幼い頃から出版当時の40代半ばまでに19回ほど引っ越しをしており、その中で自分の住みたい場所が主体的に選べないようになっているという感覚が芽生えたことを話す。確かに現代においてもどこに住むかは相対的に決定されることが多い気がする。学校や職場に近い、おしゃれな街として知られている、家賃が手頃など家を選ぶ基準は多くあるが、その土地に馴染みや愛着があるかどうかは脇に置かれてしまい自らの置かれている状況やモードに合わせてどこに住むかを選んでいる、いや選ばされている。このような流れは昔あった共同体が解体され境界線がなくなることで、現代の均質的な都市空間が出来上がっていることと繋がっていると本書では示唆される。ただ、例えば日本の近代以前の建築が均質性と真っ向から対立する空間を有していたかというとそうではないらしい。日本の建築は「しつらえ」が基本であり、例えば畳の任意の位置に布団を敷くことで空間が変容する。きっと夫婦であるか、親子であるか、それとも家族全員であるかで布団の位置は変わるだろう*1。それは空間が元々は均質でありながらもそこに住まう者の「しつらえ」によって濃淡を持つようになるということだ。それぞれの共同体が持つルールが空間に秩序を生み出し傾斜を与えていた。

 

『ひかりの歌』という映画を観た。演劇をフィールドに活躍している俳優が多く出演しており良い評判を聞いていたので期待していたが、期待以上に誠実で慎ましい劇映画であった。4つの短歌を元に4つのシナリオが執筆されたオムニバス形式の作品であるが、話の内容については興味を持ったら観に行っていただければ良いので特に触れずに感想を書き連ねる。この作品は「想像」がキーワードである。まず一つに作品内において登場人物たちは互いに想像を巡らせながら、特定の行為に踏み出たり躊躇したりする。相手がどのようなことを考えているのか、を考えることは人間のコミュニケーションに欠かせないものであるが、それが非常に落ち着いた手つきで示されているのが本作である。作品の中で人々は分かり合ったり分かり合えなかったり、共にいることを選んだり別れることにしたりする。その中で大きな意味で人と人が共に生きることが主題化される。また、観客にとっても想像は不可避である。この映画において事実は説明として提示されない。ある人物が泣く、ということが例えば恋い慕う人物の死や自らの夢の達成を指示するものとしては用いられないし、男が失踪した過去を持つという事実はその経緯や理由はほとんど明かされないために男の心情を説明する機能を果たさない。しかし、そのことによって観客はささやかに提示される事実と事実の間にある何かを想像してしまう。そしてその想像する過程において観客の中には多様な感情や考えが芽生えうる。『ひかりの歌』は一様な感情を喚起するために事実を説明的に組み立てる映画とは一線を画している。そして、そもそもこの作品が作られたプロセスも「想像」だ。一つの短歌の裏に存在するであろうドラマを想像/創造してシナリオが作られている。劇場を出たあと一緒に観に行った友人が「映画の中に流れる秒針の音とかを聞いて、忙しい生活をやめようと思った」と言った。すごく良い言葉だ。すごく良いことだ。作品内の時間が生活の時間に食い込み主体に変化をもたらす。他者の想像、そしてそれを元にした自分の想像が日常を新たに創造していくことへと繋がるのだ。主語の大きい話を許してほしいが芸術に関わるっていうのはそういうことなのだろう。つまり、虚構の「現実」によって現実空間に傾斜を与えること。それが芸術作品が持つ働きであり、面白さである。そして、これまでのように一つのオルタナティブな「現実」を作るだけでなく、現実に対抗する「現実」が幾重にも織り込まれた「諸現実」を提示することに新たな可能性が見出される。きっとそのような作品を作ることは難しいのだけれど、でも実は意外と近いところにありそうだと演劇の稽古をしながら思う。

*1:黒川が太田省吾の『棲家』という戯曲を紹介している。この戯曲には老夫婦が布団を敷く位置で小競り合いをするシーンがあり、黒川はそこから布団を敷く位置によって「位置のエロチシズムみたいなのが強烈に匂ってくる」と述べる。