ブラックホール

書くことで何かを見つける日々です

態度を聴く アティチュードのエチュード(新聞家『遺影』)

新聞家(ないし村社祐太朗)の作る演劇作品は継続して観てきたが、久々に心の底から楽しい時間を過ごした。そうか、やはり新聞家は面白かったのだな。

新聞家『遺影』では結婚披露宴に参列した新婦の妹とその夫の記憶/イメージが元になったテキストが発話される。男女2人の俳優は舞台中央に据えられた椅子に腰掛けて、テキストの意味を確かめつつゆっくり間を置いて発話を行う。その様子は通俗的な「演劇」とは異なる。俳優たちは新婦の妹やその夫という役柄/キャラクターに同一化するのではなく、テキストと一定の距離を保ちつつそれを読み上げるという態度を取るからだ。動きもテキストの内容を説明・伝達するものではなく、「ハンドクリームを塗る」というささやかなものである。それはおそらく常に新聞家で意識されていることであり、村社自身の要求でもあるが、それは彼の書くテキストが要請するものでもある。村社が書くテキストの特徴として「語の一般的でない選択」が挙げられる。すなわち、我々が日常において使うことのあまりない言葉の並びが続くということだ。例えば、テキストの最初部は「「スクリーン」は、個であるのと同じ縦横比を四つでも保っている」*1である。この部分はおそらく披露宴会場の前方中央部に設置されたスクリーンが模造紙を4つ組みあわせて作られたような形状であることを示している*2。しかし、それを私がしたように直截に表現するのではなく、あえて「分かりにくい」表現が用いられる。そのように作られたテキストは紋切り型の感情や仕草でもって表現されることを拒む*3

ところで、他の観客の賛同は得られそうにないし意見会の場でも実際に得られなかったが、新聞家を継続して観てきた者としては『遺影』で用いられたテキストは比較的「分かりやすい」テキストに思えた*4。ここでの「分かりやすい」とは、そこで語られている情景(語り手の知覚)がイメージとして想起されやすい、といった意味だ。新婦の妹夫婦*5が結婚披露宴の会場で周囲を見渡し様々なことを思案している姿が漸次的に浮かんでいく。しかし、イメージの受け取りやすさによって謎はさらに深いものとなる。語り手は知覚をどう認識したか、換言すれば知覚に対する主観的な態度が判然としないのだ。例えばそれは「進行形と解決の完了」「庇いたいのは」という語の選択に象徴される。何故その語でなければいけなかったのかと語り手に問いたくなるような語が意図的に使用されているのだ。そして、語の選択に対して疑問が呈されることによりある態度を取る他者が立ち現れる。テキストの中に潜んでいるその他者と上演の場で出会うというのが『遺影』において起きていたことだった。そういう意味で新聞家の演劇は端的にコミュニケーションの場になっていると言える。

また、テクストと観客(聴者の方が適当かもしれない)の間だけでなく、俳優と観客の間でもコミュニケーションは成立している。俳優らは稽古場でテキストと誠実に向き合い上演の準備をしてくる。観客はそれを決して漫然と受容するのではなく、集中して耳を傾ける。そういう態度(私なりの言い方で言えば「話される」姿勢)を取ることが新聞家の演劇を観ることの醍醐味なのではないか。だから、一聴してテキストの指示する内容が分からないからといって、それは責められることではない。ただ、分からないことによってこちらからコミュニケーションの回路を遮断してしまってはいけない。他者の声に、そして態度に耳を澄ます*6ことが必要になる。そのような観客の態度は作品が上演される時間だけでなく、その前後にも要請されるだろう。例えば、上演中に集中を保つため事前に睡眠を十分に取るなどの準備をすることが挙げられるだろうし、上演終了後の意見会で他の人の意見や感想を真摯に受け取ることもその一種だろう。向けられる声に耳を傾け理解しようと努める営み、俳優や作・演出家の行った準備に対する態度による応答は上演の内外に散りばめられているのだ。そして今回はプロンプターの存在が態度の重要性を象徴しているように思える。本作品ではプロンプターとして内田涼がクレジットされている。上演中に舞台面に出てくることはなく観客はその存在を認識できないのだが、実は客席に変装した状態で座っている。そのことがどのような意味を持つのか。プロンプターは稽古の時間を共にしており、両者のテキストを暗記している。そのような人物が無数の観客の中にいるという事実が俳優にとっては安心材料になるという。それは一次的には共に時間を過ごしテキストを覚えているという素朴な事実によって支えられているが、二次的にはそのことがもたらす態度によってなのではないか。あなたのことを分かっている、もしくは、分からないかもしれないが分かろうとしているというあり方。そのような俳優と同じ地平で関わろうとする姿勢を『遺影』におけるプロンプターは体現している。その態度を獲得することは時間も情報も共有していない一観客であっても可能だ。ただ席に座り声/態度に耳を澄ます。それだけのことだ。きっと日常にも遍在していることである。しかし、そのことを意識することは難しい。人は簡単に他者との真摯な関わりから逃れ出てしまう。だからこそ、劇場に集まることの望みがある。演劇の希望がある*7

*1:テキストは購入していないので引用らしきものは全てうろ覚えのまま書いている(ドキュメントブックは予約したから許してください)。

*2:その後、「京樽の茶巾」や「ミニスーパー」で購入した「みかん」が登場する。これらの情報を総合すると、結婚披露宴といってもホテルなどで行われる大々的なものではなく、どちらかの家かもしくは狭めの貸しスペースなど本来は披露宴が行われないような場所で行われるお手製の披露宴なのだろうか。

*3:もちろん異なる演出の可能性はあるとは思うが、成功するかどうかは分からない。

*4:例えば、近作の『失恋』ではより短いテキストの中で場所が移動しているし言葉と言葉の係り受けが複雑になっている、ように思える。また、あるツイートで「そもそも他者理解は不可能なのだから分かりやすいとか分かりにくいとかそういうことにこだわらなくても良いのでは」という指摘がなされていた。もちろん他者を理解することは等しく不可能ないし困難なのだが、そもそも新聞家の上演においてはそのことが主題化されている。そのとき、伝達の遂行可能性の調整は必要なのではないか。すなわち、分かりやすすぎても分かりにくすぎても「他者とのコミュニケーション」は前景化されない。少なくとも今回の上演において私は一定程度の分かりやすさが上演の豊かさに寄与していると考えた。

*5:席次表の誰がこの二人なのかということが意見会で度々話題になっていたが、①新婦の妹夫婦はよほどの偶然がない限り他の人々と苗字を共有し得ないこと②見晴らしの良い席に座っていること③隣に叔母が座っておりその名にはにんべんが含まれているはずだということによりほぼ確定可能だろう。しかも、恐らくはモデルがいる…?もちろん、誰だか分かることが重要なのではないが。

*6:「態度に耳を澄ます」「態度を聞く」という表現は亜人間都市の黒木洋平が自身の開催したワークショップのステートメントに使用していたものである。

対話は話すことよりむしろ聞くことに始まる、と考えます。言葉はときどき頼りなく、態度を聞くことができればと思います。誰かの態度を聞くとき、聞く態度自体もまた誰かに聞かれるでしょう。そうであるなら、そこでは「態度の対話」が起こるのではないでしょうか。

恐らくそれは、普段の生活の中で当然に起こっていることだと思います。しかし同時に、普段の生活の中では感じがたいことであるようにも思います。(後略)
amanstadt | WS「態度に耳を澄ます」

*7:私も最近まで村社テキストを発話して上演することの意義がよく分からずにいた。それはせっかく豊かな余白のある、しかし一つの濃厚な線を持っているテキストを理解し対話するためには、上演という形より、ワークショップ的な方法のほうが良いのではないかと思っていた。しかし、今回の作品で、上演すること、場を共有すること、テキストが声によって届けられることの意義を感じることができて、非常に良い機会になった。